携帯小説から新しい文学は生まれるか 2
携帯小説の話からは少し外れてしまうのですが…
漫画家を目指している友人がいました。
彼女は、最初はマーガレットとか、花とゆめなんかに投稿していたのですが、一番よくてB賞。
なかなか評価されなかったんですね。
で、彼女がどうしたかというと、もっと発行部数の少ない、マイナーな雑誌に投稿するようになったんです。
マイナーな雑誌なら読者も少ない→投稿者も少ない→賞を取れるかも!
という発想です。
結果的にA賞まで行ったのかな?
評が載らない中では最高の賞。
結局、彼女はマンガ家になる夢をあきらめてしまったのですが、結果はともかくこういった戦略もアリだと思うのです。
「携帯小説から新しい文学は生まれるか 1」でも語ったのですが、ポスト「銀英伝」として名高い、小野不由美の「十二国記」は、少女小説が初出ですよね。
詳しいことは分かりませんが、小野不由美氏は確実にデビューできる場として、まずは少女小説を攻めたのではないでしょうか。
なんでもそうですが、上達するためにはまずは数稽古が必要。
山本一力氏のように苦節○年もいいと思いますが、まずはデビューしてしまい、プロの作家として研鑽するというのも一つの道でしょう。
プロとして作品を発表すれば、アマチュア時代と比較して、飛躍的に批評の場に晒されて磨かれていくでしょうからね。
携帯小説にも、「日本ケータイ小説大賞 」「短編ケータイ文芸賞 」などといった賞が設立されました。
携帯小説も、ここを窓口として、実力のある作家さんが育つ場になるかもしれないですよね。
楽しみです。
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携帯小説から新しい文学は生まれるか 1
「携帯小説からは新しい文学は生まれない」、という極論を言う人もいますが、わたしはそんなことはないと思います。
こういったことを言う人は、携帯小説は若い作者による稚拙な小説だから、文学的価値はない、などと言っています。
確かに「純文学」なんかから見たら携帯小説は稚拙かも知れませんけど、難解な小説がそんなにいいのかな、と思いませんか?
「一番難しいのは、難しいことを簡単に書くことである。簡単なことを難しく書くのは、誰にでもできる」といわれていますが、純文学にも当てはまる部分があるのではないでしょうか。
私自身の体験になりますが、小学生か中学生の頃、コバルト文庫ができました。
当時の「大人」からの評判は、それはもう散々なものでした。
「文字数が少なく、中身がすかすかである」
「内容がどれもほとんど同じ」
など、今思うと携帯小説と同じような批判にさらされました。
でも、コバルト文庫にも面白いものと面白くないものがあり、私は友達と情報交換をしながら、気に入った作家さんを発掘していきました。
その後、こういった少女小説はいくつかできたと思います。
その中に、X文庫というものがありました。
これはもう、(今はどうかわかりませんが)発刊当初はコバルト文庫以上の文字の少なさ。
1ページ中、文字のあるのは上半分だけ。というものでした。
さすがに私もこれは…と思ったものでしたが、なんと、このX文庫には、ポスト「銀英伝」として名高い、小野不由美の「十二国記」が発表された場なんですよね。
これには驚きました。